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八重山藍とは

八重山諸島で栽培された2種類のマメ科の含藍植物及びペースト状に加工された染料を「八重山藍」と称する

八重山諸島で栽培された2種類のマメ科の含藍植物及びペースト状に加工された染料を「八重山藍」と称する

八重山藍を育む島々

琉球弧の南端に位置する八重山諸島は、9つの有人島とその他の無人島からなります。黒潮にのってきた南方文化と、沖縄本島や日本本土からの文化がまじわる亜熱帯の島々は、独自の自然や民俗文化を育んでいます。

琉球弧の南端に位置する八重山諸島は、9つの有人島とその他の無人島からなります。
黒潮にのってきた南方文化と、沖縄本島や日本本土からの文化がまじわる亜熱帯の島々は、独自の自然や民俗文化を育んでいます。

出典:国土地理院ウェブサイト

八重山藍をうみだす植物

植物名① 南蛮駒繋 ナンバンコマツナギ  学名:Indigofera suffruticosa 科:マメ科
原産:南米 鞘の形状:弓形
植物名② 台湾駒繋 タイワンコマツナギ 学名:Indigoferatinctoria 科:マメ科原産:東南アジア  鞘の形状:棒状

マメ科の低木で、その形状から総称して「木藍」とも呼ばれる。2種類の形状はほぼ同じで、見分けが付けにくいが、種を包む鞘の形状で判別出来る。葉のみに色素を有している。南方系の植物で、高温多湿で陽向を好み、干ばつや塩害にも強いことから小さな島国での栽培に適している。八重山諸島では5〜10月頃に成長期を迎え、主にその頃に収穫する。枝を刈り取るが、すぐに幹から新芽を出し50日ほどで100cmほど枝を伸ばし、葉を茂らせる。

八重山藍をうみだす植物

植物名① 南蛮駒繋 ナンバンコマツナギ  学名:Indigofera suffruticosa 科:マメ科原産:南米 鞘の形状:弓形
植物名② 台湾駒繋 タイワンコマツナギ 学名:Indigofera inctoria 科:マメ科 原産:東南アジア  鞘の形状:棒状

マメ科の低木で、その形状から総称して「木藍」とも呼ばれる。2種類の形状はほぼ同じで、見分けが付けにくいが、種を包む鞘の形状で判別出来る。葉のみに色素を有している。南方系の植物で、高温多湿で陽向を好み、干ばつや塩害にも強いことから小さな島国での栽培に適している。八重山諸島では5〜10月頃に成長期を迎え、主にその頃に収穫する。枝を刈り取るが、すぐに幹から新芽を出し50日ほどで100cmほど枝を伸ばし、葉を茂らせる。

八重山藍の加工方法

「沈殿藍」「泥藍」と呼ばれる藍色のペースト状の原料に加工する。葉の中に含まれているインジカンが、枝葉を漬け込んだ水に溶け出てインドキシルとなり、その液体を酸化させることによりインディゴへとなる。不溶性のインディゴは水中で沈殿することにより、ペースト状の「沈殿藍」を採取することができる。

植物内【インジカン・水溶性】 →(水に漬け込む)→ 水中【インドキシル・水溶性】 →(酸化させる)→ 沈殿藍【インディゴ・不溶性】
植物の特性を生かした、とても合理的な加工方法で単純な作業工程だが、単純さゆえの奥深さがある。

―藍建て―
 「八重山藍」としての藍建て方法に決まりは無いが、自然環境の保全を鑑みて、「合成の還元剤やアルカリ剤などの薬品を使用しない」「地域内で製造された沈殿藍を使用する」上記2点に留意して、藍建て・染色を行う。

八重山藍の加工方法
「沈殿藍」「泥藍」と呼ばれる藍色のペースト状の原料に加工する。
葉の中に含まれているインジカンが、枝葉を漬け込んだ水に溶け出
てインドキシルとなり、その液体を酸化させることによりインディ
ゴへとなる。不溶性のインディゴは水中で沈殿することにより、ペ
ースト状の「沈殿藍」を採取することができる。


植物内【インジカン・水溶性】 →(水に漬け込む)→ 水中【インド
キシル・水溶性】 →(酸化させる)→ 沈殿藍【インディゴ・不溶性】
植物の特性を生かした、とても合理的な加工方法で単純な作業工程だ
が、単純さゆえの奥深さがある。


―藍建て―
 「八重山藍」としての藍建て方法に決まりは無いが、自然環境の保
全を鑑みて、「合成の還元剤やアルカリ剤などの薬品を使用しない」
「地域内で製造された沈殿藍を使用する」
上記2点に留意して、藍建て・染色を行う。

「沈殿藍」「泥藍」と呼ばれる藍色のペースト状の原料に加工する。
葉の中に含まれているインジカンが、枝葉を漬け込んだ水に溶け出てインドキシルとなり、その液体を酸化させることによりインディゴへとなる。不溶性のインディゴは水中で沈殿することにより、ペースト状の「沈殿藍」を採取することができる。

植物内【インジカン・水溶性】 →(水に漬け込む)→ 水中【インドキシル・水溶性】 →(酸化させる)→ 沈殿藍【インディゴ・不溶性】
植物の特性を生かした、とても合理的な加工方法で単純な作業工程だが、単純さゆえの奥深さがある。

―藍建て―
 「八重山藍」としての藍建て方法に決まりは無いが、自然環境の保全を鑑みて、「合成の還元剤やアルカリ剤などの薬品を使用しない」「地域内で製造された沈殿藍を使用する」
上記2点に留意して、藍建て・染色を行う。

私たちのこと

琉球弧の南端に位置する八重山諸島では、古くから独特な藍染めが受け継がれています。それは本州や四国でつくられる蓼藍や、沖縄本島でつくられる琉球藍とは異なる、八重山諸島の気候風土に適した藍です。古くから織り物が盛んなこの島々では、藍は糸を染めるための染料のひとつで、藍染め自体が主役になることが無く、一番手間隙のかかる染料であるため、その担い手は徐々に少なくなり、ほぼ途絶えかけていました。わたし達は、島々の自然と、人の手が育んだ藍を途絶えさせることなく、これからも継承してゆくために、「八重山藍」と命名しました。

八重山藍振興組合 infoyaeyamaai.okinawa

石垣島

石垣島

西表島

与那国島

沿革

2021/7

「八重山藍振興組合準備室」として沖縄県離島マーケティング支援事業採択。

2021/8

石垣市・竹富町・与那国町の染織事業者が連携して「八重山藍振興組合」発足。

2021/8

代表に大浜豪を選任。

八重山藍をうみだす植物

琉球弧の南端に位置する八重山諸島では、古くから独特な藍染め
が受け継がれています。それは本州や四国でつくられる蓼藍や、
沖縄本島でつくられる琉球藍とは異なる、八重山諸島の気候風土
に適した藍です。古くから織り物が盛んなこの島々では、藍は糸
を染めるための染料のひとつで、藍染め自体が主役になることが
無く、一番手間隙のかかる染料であるため、その担い手は徐々に
少なくなり、ほぼ途絶えかけていました。わたし達は、島々の自
然と、人の手が育んだ藍を途絶えさせることなく、これからも継
承してゆくために、「八重山藍」と命名しました。

琉球弧の南端に位置する八重山諸島では、古くから独特な藍染めが受け継がれています。それは本州や四国でつくられる蓼藍や、沖縄本島でつくられる琉球藍とは異なる、八重山諸島の気候風土に適した藍です。古くから織り物が盛んなこの島々では、藍は糸を染めるための染料のひとつで、藍染め自体が主役になることが無く、一番手間隙のかかる染料であるため、その担い手は徐々に少なくなり、ほぼ途絶えかけていました。わたし達は、島々の自然と、人の手が育んだ藍を途絶えさせることなく、これからも継承してゆくために、「八重山藍」と命名しました。

八重山藍振興組合 infoyaeyamaai.okinawa

石垣島

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西表島

与那国島

沿革

2021/7

「八重山藍振興組合準備室」として沖縄県離島マーケティング支援事業採択。

2021/8

石垣市・竹富町・与那国町の染織事業者が連携して「八重山藍振興組合」発足。

2021/8

会長に大濱豪を選任。

私たちのこと
琉球弧の南端に位置する八重山諸島では、古くから独特な藍染め
が受け継がれています。それは本州や四国でつくられる蓼藍や、
沖縄本島でつくられる琉球藍とは異なる、八重山諸島の気候風土
に適した藍です。古くから織り物が盛んなこの島々では、藍は糸
を染めるための染料のひとつで、藍染め自体が主役になることが
無く、一番手間隙のかかる染料であるため、その担い手は徐々に
少なくなり、ほぼ途絶えかけていました。わたし達は、島々の自
然と、人の手が育んだ藍を途絶えさせることなく、これからも継
承してゆくために、「八重山藍」と命名しました。

琉球弧の南端に位置する八重山諸島では、古くから独特な藍染めが受け継がれています。それは本州や四国でつくられる蓼藍や、沖縄本島でつくられる琉球藍とは異なる、八重山諸島の気候風土に適した藍です。古くから織り物が盛んなこの島々では、藍は糸を染めるための染料のひとつで、藍染め自体が主役になることが無く、一番手間隙のかかる染料であるため、その担い手は徐々に少なくなり、ほぼ途絶えかけていました。わたし達は、島々の自然と、人の手が育んだ藍を途絶えさせることなく、これからも継承してゆくために、「八重山藍」と命名しました。

八重山藍振興組合 infoyaeyamaai.okinawa

石垣島

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西表島

与那国島

沿革

2021/7

「八重山藍振興組合準備室」として沖縄県離島マーケティング支援事業採択。

2021/8

石垣市・竹富町・与那国町の染織事業者が連携して「八重山藍振興組合」発足。

2021/8

会長に大濱豪を選任。

資料室
藍に関する情報を八重山からの視点で集めました。使用した資料は参考資料に記載します。
「歴史」は主に沖縄県立美術館・博物館の『沖縄の藍』p10~p11を元に作成しました。その他の記述については 各項目の文末に付した参考文献により補完して作成します。

―世界―
藍は人類最古の植物染料といわれ、古くは紀元前2500年~1800年頃インダス文明のモヘンジョダロ遺跡から 藍染された裂布が発見されている。
古代エジプトの首都テーベの遺跡から、ミイラに巻かれた藍染め布が出土した。
インドのサンスクリット文献によると、紀元前一世紀のインドではすでに沈殿法により、整藍された固形状の藍が、 地中海沿岸地域に輸出されていたといわれる。(竹内 1999・P29)
ローマ全盛時代は、アレクサンドリアを経由して入った青藍染料を、インド原産にちなんでインジカン (Indicum)と呼ぶようになった。(竹内 1999・p29)
古代ローマの大プリニウスが著した書『博物誌』(全 37 巻)に、インド産の藍染料についての染織や薬用効果 が記載されている。
『博物誌』には、ガリア人(イタリア半島北部へ押し寄せた部族)が羊毛の染織や身体の彩色にホソバタイセ イを用いたことが記される。
4世紀ごろのインド藍の栽培地は、インド北部のグジャラート近辺であった。アラビア商人により、エジプト をはじめ地中海方面に売られ、1200年ごろには中国に及び、藍靛(らんじょう)と呼ばれるようになる。 (竹内 1999・p29)
10世紀頃には、ドイツやイギリス各地で藍が栽培されている。イギリスの史跡で染織職人の遺構も確認される。
マルコ・ポーロは中国からの帰途、南インドのキーロンで行われているインジゴの製法を『東方見聞録』に記している。(竹内1999・p29)
インドにおけるインジゴの生産は、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが 1498 年に南アフリカを回るインド洋航路を発見することにより、 いっそう盛んになった。(竹内 1999・p30)
15世紀以降、中南米を原産地とするナンバンコマツナギがヨーロッパへ伝来。その後、アフリカやアジアにも もたらされる。
16世紀中頃には、ポルトガル人がインドで生産された藍染料(藍靛)を輸入すると、ヨーロッパ各地でホソバタイセイからつくられる藍を保護する ため、インド藍使用禁止令が出されるが間もなく衰退する。
中央アメリカでは、スペイン領主が原住民を使い、大量のインディゴ栽培と合理的な方法による染料生産が行われる。
1578年に完成した中国の薬学書『本草網目』(ほんぞうこうもく)には、リュウキュウアイ(漢名:馬藍)の 根が敗血症に効果があると記載されている。
『天工開物』(てんこうかいぶつ)は明代末の産業記述書で、「染織」の項目にリュウキュウアイ、タデアイ、ホソバタイセイ等の栽培や 藍澱について記載がある。
18世紀の植民地支配下のアフリカでは、大量の藍が栽培されている
1717年台湾で書かれた『諸羅県志』によると、台湾以北地区で泥藍を乾燥させた藍靛が生産されている。また藍靛を扱う商人が出て、 相当な利益を得ている。
ヨーロッパ諸国は、北米や中米の植民地でインド藍の生産を奨励し、大量のインド藍が輸出されるようになる。 しかし、18世紀末頃からインド藍の生産が衰えるようになる。
一時期中米に藍生産の中心が移ったが、18世紀末頃から衰えると、再びインド産のインディゴが輸出の中心となったが長続きしなかった。
19世紀中頃インドでは、東インド会社による思い重税を背景に、農民たちによる反乱が起こり、インディゴ工場が襲われる。
イギリスの科学者ヘンリー・エドワード・シュンクは、藍植物の青色成分を発見し、インディカンと命名した。 インディカンが紫外線と空気中の酸素にふれることにより、青色色素のインディゴとなることを解明した。
ヨーロッパ各地で次々と新しい合成染料が開発される。1880年ドイツの科学者バイヤーが合成藍インディゴの開発に成功し、 1883年ドイツの総合化学メーカーが商品化を行う。
1873年アメリカでは、リーバイ・ストラウスと仕立屋のヤコブ・デイビスが労働者のための仕事着を考案し、後にインディゴ染めの デニムが使用されるようになる。
台湾総督府関連資料に藍の項目を含む件数が増加し、製藍の技量や価格が最高に達する。
台湾ではリュウキュウアイを「山藍」、または「大青」と呼んだ。リュウキュウアイの生産が低下し、インド藍の生産が主流になるが、 泥藍の下落から別の農産物への移行が始まる。
合成藍の出現とともに、アフリカやインド、中米や北米での藍のプランテーションが終焉を迎える。)

―日本―
日本においての藍の記録は、古墳時代の終わり頃で、渡来人によって藍染の技術が広まったとされる。
日本最古の歌集『万葉集』には「水縹」(ミナハダ)という薄藍色の表現が残る。(https://irocore.com/mizuhanada/)
718年に、養老律令が成立し、官位を示す衣服に藍を使用する。「浅緑」「深緑」「浅縹」が規定される。
752年、藍で染められた縹束、縹縷(はなだのる、ねじった長い紐)が東大寺大仏の開眼法要で使用される。
平安時代の『枕草子』には、「二藍」(フタアイ)という表現がある。藍の上に紅花を染め重ねた明るく渋い青紫色のこと。 (https://irocore.com/futaai/)
平安時代には、藍染の青に黄檗の黄をかけて染めた緑みの青のことを藍色といい、『延喜式』では、「深藍色」から 「白藍色」まで濃度によって4段階にわけられた。 藍だけで染めた色は「縹(はなだ)」として区別していた。(城2020・p50)
918年、日本最古の薬草書『本草和名』(ほんぞうわみょう)に、アブラナ科の藍植物として「大青(たいせい)」 が記される。
藍掻(あいがき)職人という糸や布を藍で染める業者が登場する。
室町時代以降、すくも方が独自の製藍として考案される。
鎌倉時代、藍染の一種で、紺よりさらに濃い色を「褐色(かちいろ)」と称した。「かつ」の読みが「勝つ」に通ずることから、 武士階級に好まれ甲冑やのろし、 鎧直垂(よろいひたたれ)の色として愛好された。(城 2020・p87)
江戸時代末期に、阿波(徳島県)の蜂須賀藩(はちすかはん)が木綿の藍染を奨励し、「阿波藍」の名で全国に普及した。(城 2020・p150)
江戸時代を代表する葛飾北斎の「紺屋の図」には、藍染専門の職人たち(男)が描かれている。神田紺屋町で染められる藍染は特に人気があった。 (『画本東都遊』より「[紺屋の図]」(tokyo.lg.jp)
江戸時代に紺は庶民の衣服の定番となり、日常着や生活のさまざまな場面に登場する色彩となった。藍染は染め方により、一番薄い 「瓶覗(かめのぞき)」から一番濃い「紺」まで「藍四十八色」といわれるほど多彩である。(城 2020・p150~p151)
明治初期に来日したラフカディオ・ハーンはエッセイ「東洋の土を踏んだ日」の中で、店の暖簾、町人の着物、法被姿、 いたるところに紺が使われていたと記している。(城 2020・p161)
江戸時代の浮世絵では、青を表現するのに藍や露草から採取される青を使用していたが、色が褪せ、耐久性が低かった。 西洋からプルシアン(合成顔料)が輸入されると、北斎や広重などの人気浮世絵絵師たちが、「ベロ藍」と呼び「富嶽三十六景」など数々の名作を残す。(城 2020・p160)
広重らの浮世絵が海外へ輸出されると、西洋の画家たちは、その青色を「Hiroshige Blue」と呼び愛でたという。(城 2020・p160)
江戸時代にはすでにインジゴは輸入されていた。輸入インジゴを藍靛(らんじょう)と称し、明治時代になって「印度藍」といった。 印度藍の輸入は、年を追うごとに増加したが、明治中期以降は合成藍(インジゴ・ピュア―)の登場により激減した。(竹内1999・p30)
1876年、五代友厚による藍染料の製造所「朝陽館」が大阪で開設される。欧米各地に輸出され、最盛期を迎えるが、1883年に閉鎖される。
1891年、静岡県や群馬県にリュウキュウアイの栽培方法や泥藍づくりの技法が広がった。
江戸時代にはすでにインジゴは輸入されていた。輸入インジゴを藍靛(らんじょう)と称し、明治時代になって「印度藍」といった。 印度藍の輸入は、年を追うごとに増加したが、明治中期以降は合成藍(インジゴ・ピュ ア―)の登場により激減した。(竹内 1999・p30)
―八重山―
現在沖縄に残る藍染料の最古の記録は、与那国島に漂着した済州島出身の朝鮮人が残した『朝鮮王朝実録』に記録されている。
『朝鮮王朝実録』1477 年の与那国島での記録には、「男はフンドシをし、女は下着にスカートを着た。青か藍の染めを好んだ」という記録が残る。 (任 2000・p70)
1372年の琉球が明へ入貢を始めたのをきっかけに、海外交易が興隆する。尚巴志の代には中国をはじめ、日本本土、朝鮮、安南、シャム、 マラッカ、ジャワ、スマトラなどとの船の往来は年々盛況をきわめた。(富山・大野1971・p17)
1615年頃機織りの名手であった崎原与人・孫広の母・茂樽が王府の名により八重山へわたり、機織りの指導にあたったとされる。 (富山・大野1971・p150)
慶良間島へ流罪された本宮良頭は、慶良間島の島民から教わった綿花栽培、製糸法、木綿織を1634年帰郷した八重山に伝えたといわれる。 (富山・大野1971・p151)
1637 年、薩摩藩は所納品として芭蕉布三〇〇〇反、上布六〇〇〇反、下布一万反、唐芋一三〇〇斤、綿子三貫目、しゅろ綱一〇〇房、 むしろ三八〇〇枚、牛皮三〇〇枚を琉球王府に命じた。薩摩への貢租を軽減させるために、琉球王府はやむなく、宮古、八重山の島々に人頭税を課す。 (竹内1991・p354)
貢納布の中でも「御用布(グイフ)」は、王家や薩摩藩からの特別注文の上布で、これを織るために「御絵図」(みえず)という図柄見本が存在し、 王府からの厳しい管理におかれるようになる。(あさぱな 2003・p157)
貢納布の種類は白上布、白中布、白下布。紺縞上布(藍染の紺または絣柄の上布と解釈)、赤縞中布、紺縞下布、紺縞細上布などで、 特に紺縞、赤縞上布は御用布用に指定されていた。(富山・大野 1971・p149)
御用布の中から特選された反布は、首里王家から薩摩藩への貢納品として献上され、薩摩上布の名で取引された(竹内1991・p356)
人頭税時代、八重山では白地の赤縞細上布絣、宮古は紺細上布絣の技術が相当向上していたようである。琉球絣は、先島の貢納布の絣を ヒントにして織り始めたものだという。(宮城1972・p85)
琉球絣は藍染の優雅な色と沖縄独特の美しい絣で、色も落ちないと重宝され、薩摩絣の名で本土に売られたようである。久留米絣や伊予絣、 薩摩絣の先祖は琉球絣だといわれており、つまり日本の絣の発祥地は宮古、八重山だということになる。(宮城1972・p85)
世界の絣の発祥地は、インド、インドネシア、フィリピンといわれ絣の技法が沖縄と同じだという。昔は、マニラ、 安南の漂流船がたびたび八重山に来たため、その影響を受けて八重山で絣が織られたのではないかと言われている。(宮城1972・p85)
原糸(木綿と紬糸)の栽培加工については、日本本土からの技術導入によったが、染織技術においては、中国や南方の影響が大きく、 その成果は逆に沖縄から日本本土へもたらされたといえる。(富山・大野1971・p17)
石垣市に残る古文書を現代語訳した資料に『石垣市史叢書』(1~25巻)がある。その資料の中には、人頭税時代において、 栽培から染織、布晒、また着るものまで厳しく管理された百姓たちの姿が記録されている。
『石垣市史叢書索引Ⅰ』には、「藍紙笠」、「藍下知人」、「藍下知筆者」、「藍敷」、「藍敷仕立方」、「藍仕立加勢 筆者」、「藍仕立加勢筆者勤職定」、「藍島」、「藍遣」、「藍遣人」、「藍下知筆者」などの言葉が記録されている。(石垣市 2002・p1)
藍紙笠(あいがみがさ) 王府時代は士族以上の階級が使用したという藍紙で張られた傘。(石垣市史叢1 p42)
藍下知人(あいげちにん)下知とは、指示、命令、治めることをいう。(石垣市史叢書1 p26 ,p61)
藍下知筆者(あいげちひっしゃ)筆者とは士族の役職。藍の生産を指図する役人。
藍敷(あいしき)とは藍の畑のこと。(石垣市史叢書1 p48)
藍敷仕立方(あいしきしたてかた) 藍畑の栽培。(石垣市史叢書1 p67)
藍仕立加勢筆者(あいしたてかせいひっしゃ)一カ村に任命された藍の仕立てを担当する奉公人(役人)。(石垣市史叢書1 p26)
藍仕立加勢筆者勤職定(あいしたてかせいひっしゃつとめしょくさだめ) 藍仕立加勢筆者の職務定め。(石垣市史叢書1 p67)
藍島(あいしま)藍の縦縞模様のこと。百姓たちは藍島の着物を着ることを禁止されていた。
藍遣(あいつかい)藍遣人(あいつかいにん)は各村々にいた御用布の経糸・緯糸の調べ、染織などを務めた女性をさす。 村の大きさにより任命される人数が違った。(石垣市史叢書3 p20~p24)
1765年、石垣四か村の百姓たちが御用布の調整に苦労する様子を、役人が王府に報告する文書が残る。(石垣市史叢書9 p104)
1876年桃里村の目差に任命された崎原仁屋の日記には、「藍玉割付高~」、「生唐藍弐斤」、「模合藍畑」、「あい見分」、 「模合生藍九斤代」、「生藍」など農村での「藍」に関する役人の指示や動向、村の様子が伺える内容が残る。(石垣市史叢書15)
在番・頭が村々を巡回するときに、御用布用の藍は、調製する女一人につき四〇目ずつ作らせていることを確認することと記される。 (石垣市史叢書5 p48)
八重山での藍の作地は、以前は人数により割り当てていたが、根付け量が少なく、手入れも念入りに行わず、多くは本島産を用いるので島の 損失が少なくない。土地を増作させるので御用布を不足なく揃えるようにとの指示がある。(石垣市史叢書7 p70)
苧・藍は御用布または着用布を調えるのに不可欠な品であるが、出来高が半分しかなく本島産を高値で買い取っているのは、島が疲弊することになる。 立地や栽培方法を考え繁茂させないと管轄の役人にも処分がおよぶはずだとの指示が残る。(石垣市史叢書7・12p)
1844年村中の願いにより新しい敷地に越してきたが、砂地であるため苧・藍・諸野菜が育たず元の場所に戻りたいとのお願いを、高那村の目差(役人) が王府へお願いしている。(石垣市史叢書17・p81)
唐苧や藍の畑はこれより屋敷内一家に付き、苧畑四坪、藍畑二坪、模合(共同栽培)は苧六坪、藍四坪ずつと定めるとの指示がある。 (石垣市史叢書17・p87)
1830年南風見村の役人宮良仁屋は、干ばつで上納布を収める藍を準備できなかった際、乾藍二〇斤・(生)藍玉二五斤分のお米を提供した。 その他にも村のために善行を行ったため筑登之(ちくどぅん)の位を賜った。(石垣市史叢書19・p90)
黒島村の首里大屋子(しゅりおおやこ)は、人口が減り疲弊した村を指揮し、麻・綿・藍などを植え貢納布を無事に調えさせ、困窮する百姓には米を与え村を 立て直した。八重山島の在番・頭が王府に褒賞をお願いしている。(石垣市史叢書20・p34)
1860年、大川村の平良仁屋は、藍の苗がないときに、米二斗五升起を差し出し苗を購入し村民に提供した。また孤児五名を引き取り、彼らの年貢や諸上納物を 代わりに納めた。その行いが認められ王府から爵位を賜う。(石垣市史叢書20・p58)
1864年、鬚川村の加奈嵩西は、藍の種を村人に提供し、一六〇坪の藍畑を耕し種子を蒔いたが対価を受け取らなかった。困窮する者を助け上納布をすべて調えさせ人民に 恩恵を分け与えたため、王府より赤冠をもらい功績を表彰した。(石垣市史叢書20・p77)
1857年になると、苧・藍は沖縄産のものを用いるようになり。木綿花も収穫が少なく購入するようになっていた。(あさぱな 2003・p87)
1879年日本政府の命を受け琉球王国が崩壊し、沖縄県が誕生する。八重山では旧王族尚家の経営する丸一商店を通じ、紺縞細上布(手結絣)、 赤縞上布(摺込絣)、木綿などが各地へ販売されるようになる。(富山・大野1971・p151)
八重山上布といえば、“茶染めの白絣”と今日では、決まっているが、戦前までは“藍染の白絣”が存在していた。(富山・大野 1971・p151)
明治の初め頃、八重山はまだ地機であったが、大浜当善氏が改良を加え「短機」といわれる高機を考案した。明治30年(1897)には 八重山織物組合が誕生する。(富山・大野 1971・p151)
人頭税が廃止されたのは 1903年になってからである。八重山の織物は、三大産業の一つに数えられるようになる。1919年には、 上布4045反、交織布1832反、木綿3323反の生産高をしめした。(富山・大野 1971・p151)
大正6年から昭和14年の新聞広告には、呉服や反布、古着販売を扱う新聞広告があり、港の周辺や大川、石垣に17件あった。(那覇や京染の出張広告もあり。) 染物を扱う店も2件(田村染物屋・たましろや染物)あり、洗濯、染み抜き、染め直し、糸染め、幕、暖簾の藍染めもしていた様子がうかがえる。また、呉服店や藍染屋が仲介し、那覇で藍染めしてもらうシステムがあったと思われる。(干立公民館2021・p12)
昭和12年(1937)には、地元機業家の石垣用恭、崎山英保、大浜英芳、与那原孫慶、山城廉長らを中心に八重山上布工業組合が設立されるが、 続く大戦のためにその成果を見るにいたらなかった。(富山・大野1971・p151)
沖縄における染織が、民間の自発的な意欲で盛り上がるのは、人頭税廃止後の大正から昭和のはじめにかけてということになるが、 そこにはもう、戦争の足音が忍び寄る。(富山・大野 1971・p18)
戦後アメリカは、基地確保安定のため沖縄の伝統を奨励した。伝統芸能や伝統工芸は、戦後の苦難に苦しむ人々の心の支えとなった。 占領下における伝統再興の過程には、人々の文化的誇りが強く働いた。(富山・大野 1971・p20)
沖縄の染織文化には二つの特色がある。染織の歩みは沖縄の歴史そのものだということ。もう一つは、伝統の数々が過去のものではなく、 現在のものとして存在する点である。(富山・大野1971・p19)
戦後、八重山上布は衰退の道をたどるが、織り続ける人たちの思いが実り、捺染上布の講習会が石垣市の助成により始まる。1976年には、 石垣市織物事業協同組合がつくられ、1978年には石垣市伝統工芸館が完成する。(八重山上布 2013・p16)
―八重山の新聞にみる「藍」の記録―
石垣市立図書館にてデータ化されている記事を元に作成。
○八重山毎日新聞(以下毎日):1953 年 1 月~2013 年 3 月迄
○八重山日報(以下日報):1977 年 10 月~2013 年 3 月迄

・(毎日) 見直される藍染、専門家らが小浜島の登野さんらを訪問 1976/10/9
・(日報) 小浜で藍染め織物後継者養成講座開く 1984/7/15
・(毎日) 「藍染めの伝統技法継承」小浜の生徒5人が半年の講習修了 1985/1/14
・(毎日) 八重山の藍染染料 金城栄蔵 1985/8/28
・(日報) 地域に根ざす伝統織物 藍染めなど 98 点展示 1987/7/17
・(毎日) 自動らが“藍染め”に挑戦!石垣小五年生伝統工芸学ぶ 1987/11/14
・(毎日) <日曜随筆>藍建て 新絹枝 1988/7/17
・(日報) 小浜婦人会が織物展 伝統の藍染めなどズラリ 1987/7/21
・(毎日) インド藍の技術者養成 竹富町後援者育成で講習会 1988/8/25
・(日報) 竹富婦人大会の思い出に藍染めティサージ配る 1990/6/3
・(日報) 市内「やちむん館」で藍布公房展 1991/2/13
・(毎日) インド藍染めに感嘆 小浜婦人会恒例の織物展開く 1991/7/25
・(毎日) にぎわった「器と布展」涯山窯と藍布公房が開催 1993/3/23
・(日報) 石垣市教育委員会が藍染教室を催し、藍染の文化に触れる 1993/5/18
・(毎日) 石垣市教育委員会主催の染物教室 Tシャツに藍染体験 1993/5/19
・(日報) わかば幼稚園の園児達が藍染めのハンカチづくり 1993/7/6
・(毎日) わかば幼稚園の園児が初の挑戦 ハンカチに藍染め 1993/7/7
・(毎日) <誘い> 藍の形 able 展 1994/10/3
・(毎日) 染織家・高階章さんの「藍染め展」 1994/10/5
・(日報) 石小5年生がみね屋公房で「藍染め」を学ぶ 1994/11/13
・(毎日) 藍布公房の高階章さんの「早春市」個展始まる 1996/3/16
・(日報) 藍布公房主催の「早春市」展始まる 1996/3/16
・(毎日) <第11回少年の主張大会>優良賞「藍に魅せられて」 1996/7/8
・(毎日) 市教委主催の「はなずみ手芸学級」が伝統の藍染めに挑戦 1996/9/13
・(毎日) <日曜随筆>藍から愛へ 青井志津 1997/2/23
・(毎日) 大原中学校で藍染め初体験 1997/11/4
・(日報) 平得老人クラブが芸能大会で藍染めのスディナ初披露 1997/12/2
・(毎日) 新川小学校3学年親子で藍染め教室 1998/7/5
・(毎日) 卒園の思い出、いしがき保育所が親子で藍染め体験 2003/1/26
・(毎日) 北部3小学校、幼稚園が藍染めに挑戦 2004/2/14
・(毎日) 石垣青年会に島藍農園がアンガマ衣装のウチクイを贈る 2004/8/29
・(毎日) のそこ幼稚園 PTA が親子で藍染めを体験 2005/11/30
・(毎日) 石垣市母子寡婦福祉会のふれあい教室で藍染め楽しむ 2006/8/2
・(毎日) 西表の紅露公房で大学生らが藍染め、海ざらし作業 2007/3/17
・(毎日) 3兄妹による「藍・紅型・フクギ」作品展が東京で好評 2007/5/21
・(毎日) いこいの家の利用者「藍染め」に取り組み、技術習得へ 2007/6/5
・(毎日) 「八重山藍の継承発展を」藍の魅力で講演やシンポジウム 2007/6/24
・(毎日) <誘い>「日本の美」絞染作家 高階章さんが個展 2007/12/14
・(毎日) <誘い> 染家三人展~琉球紅型と八重山藍~2007/12/27
・(毎日) 緑の少年団がエコバックの藍染めに挑戦 2008/8/14
・(毎日) 市母子寡婦福祉会ふれあい教室で藍染めに挑戦 2009/7/28
・(毎日) 与那国町で昔の藍液づくり模索 染料作業工程を復活 2009/12/7
・(毎日) 島にこだわった商品誕生 藍染めヤマネコぬいぐるみ 2010/11/2
・(毎日) 藍染めのかりゆしウエアなど販売 結いの会 2010/11/10
・(日報) 「八重山の藍」でシンポジウム開かれる 2007/6/24
・(日報) 藍染め“イリオモテヤマネコ”商品化 2010/11/2
・(毎日) ふるさとの玩具 藍つきお蔵 2010/4/21
・(毎日) 「価格以上の値打ち感を」産業まつりバイヤーがアドバイス 2011/5/15
・(毎日) 伝統の藍染めを体験 学年 T シャツつくる 2011/6/26
・(日報) 市母子寡婦福祉会「世界にひとつだけの作品」 2011/7/17
・(毎日) 伝統の藍染めを体験 学年 T シャツつくる 2011/7/18
・(日報) 「ミンサ―は八重山の誇り」講習会に3人受講 2011/8/2
・(毎日) 島の織物作品を紹介 小浜婦人会が恒例の展示会 2011/8/4
・(毎日) 藍染めが生きがい 花城キミさん 2011/9/15
・(毎日) 島藍農園を経営革新支援 県が承認書を交付 2011/10/30
・(日報) 手工芸品など展示販売 恒例のこころ科作品展 2011/11/17
・(日報) 紅型染めのシャツ作り 平得公民館で「いきいき塾」 2011/12/11
・(日報) 絆を深めて地域貢献へ藍の初染め 絲ぐるまの会 2012/1/8
・(日報) 小浜の藍染め販売 JTA 機内誌と提携 2012/2/26
・(日報) 藍染めに膨らむ期待「いこいの家」で手作業 2012/3/8
・(毎日) 藍染め体験楽しむ やえやま幼稚園 2012/1/28
・(毎日) 藍染め T シャツ作りを楽しむ 約 40 人の親子が参加 2012/7/30
・(日報) 藍染に取り組む 竹富ぶなる会が講習 2012/8/13
―竹富島―
「竹富島」は主に『竹富町史第2巻竹富島』を元に作成しました。その他の記述については各項目の文末に付した参考文献により補完して作成します。

太平洋戦争後間もない頃まで、竹富島の女性にとって染め織りは女性のたしなみで、ごく当たり前に何でも織って作らなければならなかった。戦前はどの屋敷からも機織りの音がしたという。
民芸運動家の外村吉之助はその著書『沖縄の民芸』で、竹富島の老女が土地に自生する木藍を採集し、琉球藍と同じ方法で利用していると驚いた様子で記述している。
太平洋戦争前、竹富島では藍のことを「シマアイ」と呼んでいた。民芸運動家の外村吉之助から「これはインド藍というものですよ」と教わり、それ以後インド藍と呼ぶようになる。
戦後、竹富島を再度訪れた外村吉之助や柳悦孝は、島の伝統的な染め織の大事さを説いた。外村吉之助から援助をうけた島の代表が当時の琉球政府に織物の復興を要請し、ミンサ―帯の講習会が3か月行われるようになる。
1972年本土復帰した記念事業として、竹富民芸館が建設された。専門家の技術講習も行い、講師に大城志津子や志村ふくみもいた。
竹富島の戦前の年寄たちは、シマアイ用の小さなアイカミを持っており、それでアイタティ(藍建て)を行った。
アイタティ(藍建て)には、ユナキ(オオハマボウ)の灰と泡盛を入れた。泡盛はアイカミの縁を消毒することにも使用した。
藍に力がないときには、炊いた芋を叩いて潰し、糸芭蕉の芯を輪切りにしてアイカミに入れた。戦後は黒砂糖や水あめを入れるものもいた。
シマアイは畑の畔や石の多いところでも自生し、台風や干ばつにも強かった。
1962 年、竹富島の山城善三が沖縄本島から琉球藍の苗を持ち込み、屋敷の隅へ植えたが、1回も使わないうちに、台風と干ばつで全部枯らしてしまった。
ミンサ―フは綿の糸を藍で染めて織った細帯のことで、色の深さが思いの深さを表していると竹富島では伝えられてきた。
外村吉之助は、ミンサ―フの帯の幅を5㎝の細帯にこだわったという。彼は、島の織子を励ますと同時に、厳しい条件をつけながら改良を重ね、染織が成業として成り立つように尽力した。
1957年、日本民芸民藝協会一行が竹富島を訪れた。外村吉之助は事前に展示品を検査して、化学染料を用いたものや未熟なものは、庭に放り投げたという。
還暦や古希、種子取祭などの祝い事に晴れ着を着用した。男性の功労者はアイジシン(藍地衣)にミンサ―帯をしめ、その上に羽織を着用した。
竹富島での花嫁衣裳は、晴れ着にミンサ―帯を締めた。花嫁は嫁いだ後着物を新調できないため、友人同士が助け合い、反物を織る習慣があった。
昔、祭事を行う際は一般の人々は藍地に絣が入った、タナシ(単衣)、バデン(あわせ)を着用した。
祝い事の着物はクルチョー(黒朝衣)と呼ばれるもので、生芭蕉の藍染めで、赤味のかかったカラスの羽のような色。
葬儀の際には、シルチョー(白麻衣)を着、クルチョー(黒朝衣)は祝い事に着用した。
種子取祭の狂言の衣装には成人男子の役にはアイジシン(藍地衣)を着用した。
ウチクイは竹富方言で風呂敷のこと。濃紺のウチクイをヒジリウチクイといい、男性から女性へ結婚に至る過程で送られたという。
藍は思いの深さを表すことから、婚礼の際花嫁が頭を包むように被り、花嫁衣裳の一部として用いられた。戦前の葬儀の際に、忌中の女性は黒のウチクイを深くかぶり、顎で結んだという。
竹富島方言辞典には、アイカミヌ アイヤ キンパナ タチドゥラ(藍甕の藍は、金の花があらわれているよ)という言い方がある。(前新 2011・p75)
―小浜島―
『竹富町史第3巻小浜島』を元に作成しました。そのほかの記述については各項目の文末に付した参考文献により補完して作成します。

竹富島同様、小浜島では染め織りは特別な技術ではなく、島の女性ならば当たり前に身につく技術だという。
ナンバンコマツナギとタイワンコマツナギの2種で藍をつくるが、決まった呼称はなくただ「アイ」と呼んでいた。
小浜島での藍づくりは、各々微妙に異なるが、基本的な製造方法と藍建ては伝統的な手法による。昔は甕を用いていたが、現在はポリバケツを用いる。
明治10年代生まれの世代も藍づくりをしており、現在と同様の藍づくりが王府時代末期にはされていたのではないかと考えられる。
精製された藍で染織する際は、藍玉とガジュマルの生木を焼いた木炭といっしょに水道水を入れ、藍建てを行う。泡盛や水あめなどは入れない。藍がうまく建たないときは、生葉を木臼でついて柔らかくし、藍液につけて活性化したものを容器に直接追加する。
豊年祭や結願祭をはじめとする行事の際には、女たちが手織りした着物を身につける習わしが現在にも残る。島の藍で染め上げた正装のことをクンズン(紺地)と呼ぶ。
クンズンの色は着用する本人の年が重ねれば重ねるほど綾は細かく、紺無地の着物を身に着ける。濃紺のクンズンはうまく藍建てができると、3、4回の染色で得ることができる。色留めは芭蕉の根や、アコウ、アクツの木 の皮を煎じた液に浸して行う。
藍の花が咲き始めると、藍葉の収穫を始め、藍づくりの工程に入る。豊年祭の前などは、気持ちが高揚し藍建てを気長にまつことができないほどだったという。
1950 年頃の小浜島で、タキヤマ(竹山)やウリンダの山に入り、祖母が使う藍を栽培したとの記述が残る。
黒島キヌさんへの聞き取りによると、染織に必要なときに作った沈殿藍を建てて使うという。沈殿藍は、10年経っても品質は変わらないといい、石垣島から購入に訪れる人もいた。
ポリ容器に沈殿藍を入れ、ガジュマルの生木を燃やして作った木炭の上澄液(灰汁)を加え、一日に数回攪拌する。1週間程で発酵し、液の表面に泡を浮かせる。発酵を促すために泡盛や黒砂糖、似た芋を加えることもあったという。
小浜島の染織が受け継がれてきているのは、島の祭りと関係するようだ。島の男性は、母や妻、姉妹が心を込めて織った紺地の着物を着て、祭礼に参加しなければならない。
小浜島では印度藍(木藍=ナンバンコマツナギ)による藍染が伝承され、それを知ったのはごく最近であるという記載が残る。また、藍染の技能者が7名も存在しているとの嬉しい記述も残る。(富山・大野 1971・p173)
竹内淳子は、その著書で小浜島でのインド藍との出会いを「幻のインド藍を訪ねて」に残す。小浜島で伝承される藍染は、産業ではないため、沖縄県や竹富町に尋ねても誰も知る人はいなかったという。(竹内 1999・p3)
大城志津子氏は、小浜島を訪れ、自分たちで織りあげたものが実際の生活と結びついていることに温かさを感じると述べている。竹原マツルさんがすべての工程をかけて織りあげた着物を見て、「頭に石をぶつけられたような思いがした」と表現している。また、藍作りの名人大嵩ミツさん、松原ブナリさん三人女性に会い「布を作る材質作りという原点にかえる必要があると述べている。(大城 1973・p103-106)
―波照間島―
『成宗実録』に「染むる藍青を用いてす」とあり、15 世紀後半に島の染め素材として青藍を確認することができる。藍は葉の大きな「唐藍」(リュウキュウアイ)とマメ科植物の「台湾藍」2種類が確認されている。(竹富町史編集委員会 2018)
波照間島では、昭和 50 年代初頭まで、「みやこ染め」が薬局で販売され、普及していたという。(竹富町史編集委員会 2018)
―西表島―
西表島網取村(現在は廃村)では、横糸をしばり染めて模様をつける飛白(かすり)が主でアイ(藍、和名リュウキュウアイ)等で糸を染めたという。(山田雪述1992・p22)
網取のクバカーという村の共有井戸がある場所に藍を植えると、良く生えて葉が大きく育ったという。(山田雪述1992・p23)
西表島の網取(現在は廃村)では、染料に必要な藍は共同で作られ、各家でも作られていたという。また薬草として、藍の花をつついて搾り取った汁は子どもの耳炎によく効き、薬草としても重宝がられていた。(安渓2007・p143)
―与那国島―
島の染織は、祖納部落の徳永政子さんが中心となり伝統を受け継いでいる。この島では、15~6 歳になると誰もが習い始めたという。(富山・大野 1971・p179)
戦前は琉球藍を島で栽培していたが、その後伊豆味(沖縄本島北部)の泥藍を頼っていた時期もある。藍染した糸は、テカチの汁にいったんつけてから水洗いする。(富山・大野 1971・p151)
文献に残る与那国の方言に「アイヌブドゥ」ブドゥは夫の意。タデアイに似て染まらないことからつけられたと思われるが、植物の分布も含め言葉の真意ははっきりしないという。(与那国町教育委員会1995・p309)
1988年與那嶺一子氏の調査では、(1988当時)藍の栽培は途絶えているが、以前は藍を植え、染めていたことは確認しているとの記述がある。含藍植物は特定できなかったもの、インド藍、蓼藍いずれも与那国には育ちやすいとの報告もある。(與那嶺 2013・p538)
与那国伝統織物協同組合では長い間途絶えていた藍染めの染料をつくる作業工程復活に取り組む。作業手順を知る人が島内にいないことから、沖縄本島南城市で藍染め公房を営む並河善知氏を招いて指導を受ける。(八重山毎日新聞 2009/12/7)
―石垣島―
大阿母御嶽(ホールザーウガン)は、現在平得の年中祭祀の中心の御嶽である。その初代神職大阿母多田屋遠那里のカカン(正装用の下着)は木綿の藍染である。西暦 1500 年頃の着物とカカンが直系の家によって保管されている。(牧野1990・p30)
平得には「藍盛御嶽(アイムリィオン)」と称する御嶽がある。人頭税時代、平得村の藍の担当者となった南風立家が、業務が順調にいくように祈願したことから、この名前がうまれた。(牧野1990・p194)
平得村の藍畑は、宇部御嶽北方地にあり、周囲にデイゴの木を植えてあった。(牧野 1990・p194)
大浜村で外出着のアラキィンと称し、男ものは、クンジィ(紺地や黒地)・アサジィ(浅地)の小さい縦縞にして織り、帯はブスウビィ(角帯)や藍染クンジィ(紺地)、ハナアーンやグバン模様にしたりするため工夫して織ったという。(大浜村史 2001・p264)
大浜村では、晴れ着のことをヨイキィンと称し大正期初期頃までは、バショウキンやブーキィンを藍染にし、木綿織りのブーキィンが中心であった。子ども用もバショウ(芭蕉)やブー(苧)を藍染にしたグンボー(交織り)木綿織りの着物で通学した。(大浜村史2001・p266)
大浜村での葬儀の際、女性は藍色のフジリィウツパイ(木綿の黒地に一定の模様が入った風呂敷)か、タテジィウツパイ(紺か青の縦縞の風呂敷)を被って葬式に参加した。(大浜村史2001・p268)
風呂敷のことをウツパイといい、藍型のウツパイを葬送の際被ったという。身内の者は広げたまま顔をかくすように被ったという。『八重山生活史』(宮城 1972・p114)
藍型とは、藍と黒の隈どりで文様を表現する技法。下級士族や庶民の衣服に用いられた。(竹内 1991・p310~311)
藍染幔幕とはかつて不祝儀の際張られていた幕のことである。遺体安置は二番座の仏壇側で、二番座と一番座の堺および縁側面を幕でめぐらせた。(森田 1999・p620)
八重山で薄水色に染めた男性の礼服を表わす言葉に「イルヌキン」(色の衣)がある。これは「色彩を染めぬいた衣裳」を意味するが、森田孫榮氏はその「イル」(色、色彩)にさわやかな薄水色を象徴させたところに八重山人の美意識があると論じている。(森田1999・p459)
イルヌキンは八重山の男踊りの衣裳にも用いられ、舞踊の清浄感を誘っている。
豊年祭で使われる旗頭の旗字色は薄水色が最上の染色だとされ、真似をした村はきつくとがめられたという。(森田1999・p459)
寝具には、ムス(莚)、ウズ(布団)、マッファ(枕)カツァ(蚊帳)、がありウズ(布団)の表裏とも藍染大柄絣の木綿布を使用した。カツァは藍染めした苧布でつくられ、赤い縁切れで飾られていた(森田1999・p507)
八重山毎日新聞に掲載された金城栄蔵氏の寄稿文の中に、大川のアンニ原の山林には昔の藍畑敷が残るが、農地造成事業が進み藍畑敷跡が失われるのが寂しいと記述する。(八重山毎日新聞 1985/8/28)
人頭税時代、八重山では白地の赤縞細上布絣、宮古は紺細上布絣の技術が相当向上していたようである。琉球絣は、先島の貢納布の絣をヒントにして織り始めたものだという。(宮城 1972・p85)
琉球絣は藍染の優雅な色と沖縄独特の美しい絣で、色も落ちないと重宝され、薩摩絣の名で本土に売られたようである。久留米絣や伊予絣、薩摩絣の先祖は琉球絣だといわれており、つまり日本の絣の発祥地は宮古、八重山だということになる。(宮城 1972・p85)
タナシとは、スディナの上に重ねて着ける表衣のことで、生地は苧か芭蕉の紅型または水色(藍染青)の無地物、白木綿地に紺絣などがある。(宮城 1972・p104)
フミカカンという藍染の黒い下装があり、花嫁と媒酌人の婦人用にのみ使用された。普段の下装は白の木綿布である。(宮城 1972・p107)
手拭のことをティサジ(手巾)というが、ツカンズミティサジとは、苧や木綿を白地に織って紅や藍染の絞り染など美しい手巾である。(宮城1972・p116)
蚊帳は粗目の下布を福木の皮で染め、薄い藍色で緑色にして七、七布、または九、九布などの四角に仕立てた。(宮城 1972・p118)
「アイヌシィリィ」とは藍の汁、「アイヌシトゥ」とは、沈殿した藍、藍の液を作ることを「アイ マラシィン」という。(宮城 2003・p7)
「あいぬ(藍の)しぅとぅ(澱を)きぬそんやー(かきまぜるよう)」ということわざの意味は、染料の藍を作る時に、沈殿物を採るために溶液を繰り返しかき混ぜるが、そのように激しく人を攻め苦しめる様子をいう。(宮城 1977・p30)
アイカミ(藍甕)、アイジィ(藍地)、アイジィミ(藍染)アイジィミヤー(藍染め屋)、アイズミ(藍染)アイダマ(藍玉)、アイチィカイ(藍で染めること)アイチビ(藍尻―蒙古斑のこと)など、藍に関する単語が石垣島方言辞典に収録されている。(宮城 2003・p8)
「御用誦言」「古見浦ぬブナマーレ」「中筋のヌベーマ」「布ヒカシジラバ」「あるざてーユンタ」など、人頭税時代の(貢納の様子や過酷さががうたわれる)歌謡が現在も歌い継がれている。(外間・宮良 1979)
「六二紺染め手拭や藍しどぅ染める汝とぅ吾とぅや 肝しどぅ染める」紺染めの手拭は藍で染めるあなたと私とは心で染める。 とぅばらーま(八重山を代表する叙情歌)(外間・宮良 1979・p531)
「六女子ぬ ぱぎだまや いんがー道ぬ あい畑」 女の子どもの分け前は、海への道への藍畑 大真山節/大浜村(外間・宮良 1979・518p)
「三島のあいぞめ色かおり 幾代ゆがふの祭りとて 上や下までもろともに」 島の藍染め色香り幾代<豊作>の祭りといって上や下まで諸共に小浜口説(小浜島)(外間・宮良 1979・p551)
八重山のことわざで「男ぬ 藍使うっかぁー さるなるん」ということわざがある。
男が藍を使うとサルになるという意味で、藍を使って染め物をするのは女の仕事だという。(宮城 1977・p356)
「糸染むる手にしむ藍や春浅し」明治42年『沖縄毎日新聞』に掲載された「カラス会連座」の一句。(外間・仲程・波照間 2020・p68)
「わが心尽ち朝夕染めちゃる 紺染の糸もさめて行きゆさ」『琉歌全集』に収められた盛島親雲上の琉歌。我が心を尽くして染めた紺染の糸もいつしかさめていくのは残念だとの意。(外間・仲程・波照間 2020・p212)
新絹江は1988年7月17日掲載の随筆で、「藍建て」への思いを書いている。藍液につけた糸を取り出し空気酸化させると、濃グリーンが目の前でブルーに変わっていく。手塩にかけた藍が、苦労に報いる瞬間であるように思えると綴る
葉に青い色素の素になる成分(インディカン)を含む植物を「含藍植物」と呼ぶ。世界でもっとも古くから使われている染料である。(沖縄の藍 2020・p10)
ナンバンコマツナギは、熱帯アメリカ原産のマメ科の双子葉・多年草植物である。育つと低木になるため「木藍」とも呼ばれる。葉は、丸みを帯びた楕円形の小葉が数体で一葉を作り紅紫の花をつけ、開花後は三日月形の種子をつける。(沖縄の藍 2020・p6)
タイワンコマツナギは、インド~東南アジア原産とも熱帯アフリカ原産ともいわれる。マメ科の双子葉・多年植物で、葉っぱの形状は少し細長い。茎がまっすぐのびるため台風に弱く、種子の数もナンバンコマツナギにくらべて少なく、円錐形をしている。(沖縄の藍 2020・p6)
ナンバンコマツナギもタイワンコマツナギも同じマメ科のコマツナギ属だが、ナンバンコマツナギは、アニル種であり、タイワンコマツナギはチンクトリア種である。(竹内 1999・p16)
植物のインド藍は、わが国ではチンクトリア種(タイワンコマツナギ)と、アニル種(ナンバンコマツナギ)を指すが、別に含藍植物から製造した製品もインド藍と呼んでいるのでまぎらわしい。(竹内 1999・p27)
日本でインド藍と称しているものの別名(チンクトリア種)
タイワンコマツナギ、シマコマツナギ、木藍、南蛮藍、豆藍、槐藍、大藍、小さ藍、馬藍 (竹内 1999・p28)
日本でインド藍と称しているものの別名(アニル種)
ナンバンコマツナギ、タイワン藍、大藍、南蛮大藍、南蛮藍、木藍、アメリカ木藍 (竹内1999・p28)
小浜島では、ナンバンコマツナギを「木藍(きあい)」「インド藍」と呼び、タイワンコマツナギを「ナガアイ」と称する。近年石垣島では、「島藍」「八重山藍」として栽培されている。(沖縄の藍 2020・p6)
ナンバンコマツナギのインジゴの含有量は20%以上(蓼藍は3~6%)と多く、優れているためインジゴ(藍)の代名詞となった。(竹内 1999・p12)
南米産で、ジャワへ導入されたのちオランダ人によってビルマ、マライ、中国南部などに広がり栽培されるようになる。(竹内 1999・p14)
タイワンコマツナギは南インド地方が原産地といわれる。オランダ人によってマライ、ジャワに伝わり、中国人によって台湾に渡ったといわれる。(竹内 1999・p12)
リュウキュウアイは、キツネノマゴ科リュウキュウアイ属の双子葉・多年草植物である。山藍(ヤマアイ)、唐藍(トウアイ)イェー、エー(沖縄方言)と呼ばれる。沖縄本島北部の山間部などで栽培される。 (沖縄の藍2020・p7)
リュウキュウアイの原産地は、インド島北部のアッサム地方といわれ、インドシア半島、中国南部、台湾、沖縄に分布する。温暖で多湿な半日蔭の場所で生育し肥料も十分に施す。(沖縄の藍 2020・p7)
日本本土で栽培される藍は、タデ科タデ属の一年生植物のタデアイである。東南アジア原産で、日本へは、中国から渡来したといわれる。15世紀頃には、阿波藩(徳島県)の重要財源とされ保護・奨励されたため、今日に至るまで、徳島が主産地となる。(沖縄の藍 2020・p7)
宮古島でタデアイが栽培されていた記録が残る。タデアイのことをビギーアズと呼ぶ。ビギーは男、アズは藍のことで「男藍」の意。また琉球藍のことをミーアズと呼び、「女藍」のことである。(小橋川 2004・p12)
徳島県のホームページ「藍の統計概要」では、平成30年の藍の栽培面積1位は徳島県、2位は北海道、3位は青森県、4位は兵庫県である。(藍の統計概要|徳島県ホームページ (tokushima.lg.jp)
北海道から朝鮮、ウスリー地方の海岸に野生しているホソバタイセイはアブラナ科タイセイ属の二年草で、中世ヨーロッパでさかんに栽培され、18 世紀に中国から渡来したといわれる。(沖縄の藍 2020・p7)
ハマタイセイ(エゾタイセイ)はアイヌの人々が染料に使用したという説があるが、はっきりわかっていない。現在では自生が確認できないため絶滅危惧IA類に指定されている。(http://jpnrdb.com/search.php?mode=map&q=06030511991)
薩摩出身の植物学者田代安定は、八重山諸島に出向いて調査を行った際、石垣・大川村で「山藍」(リュウキュウアイ)、「島藍」(蓼藍)が栽培されていると記録している。(安渓 2007・p335)
西表島の仲間村ではリュウキュウアイが染料用作物として栽培されていた。干立(ほしだて)の藍畑は上原で栽培され、畑のまわりにデイゴの木を植え、日陰と防風に役立てたとの記録が残る。(安渓 2007・p335)
参考資料 (編著者名五十音順)
書誌情報として、編著者、発行年、論文名(「 」で括る)、書名(『 』で括る、逐次刊行物に関しての号数は〈〉で括ることにす)、発行所の順に記す。

任東権「漂流録でみた琉球」アジア史学会/編2000年『アジアの中の沖縄』 アジア史学会
アジア史学会研究大会の講演をまとめた一冊。韓国中央大学名誉教授の任東権氏の「漂流録でみた琉球」は、朝鮮から与那国島に漂流した金非衣らの漂流録が訳されている。漂流民により近隣諸国との文物の交流が起こり、特異な文化形成の重要な一因になっていることが想像できる。

新垣幸子・松竹喜生子/監修 安本千夏/文 2013 年 『八重山上布』石垣市企画部商工振興課
わずか27ページの薄い冊子だが、八重山上布の歴史、染料、材料や道具など、簡潔・丁寧に解説している。資料室では、「八重山上布」と略記する。

安渓遊地2007年『西表島の農耕文化』 法政大学出版局
西表島西部を中心に長年フィールドワークを行った著者が、人と自然の関係を調査研究した書。特に現在では廃村になっている網取村、崎山村の暮らしについての聞き書きも収録され貴重である。

石垣市『石垣市史叢書』(1~26巻)『石垣市史叢書 索引Ⅰ』
八重山には、たくさんの古文書が戦果を逃れ残っている。石垣市が発行する「石垣市史叢書」シリーズは、それらを翻刻し、標準語訳を付して整理されており活用しやすい。人頭税時代を知る手がかりとなる基礎資料である。

大城志津子「竹富島と小浜島の織物を訪ねて」大城精/編1973年『琉球の文化 第 3 号』 琉球文化社
沖縄の伝統織物の復興に功績を残した染織家の大城志津子氏が、小浜島で出会った三人のパワフルな女性たちとの出会いにより、自身のものづくりの原点を見つめなおす姿が記述されている。

大浜村誌編集委員会/編 2001年『大浜村誌』 大浜公民館
かつての大浜村の農村生活や、暮らしの様子、祭祀、衣食住にいたる暮らしのあらゆる場面がきどらない身近な生活体験として綴られている。

沖縄県立美術館・博物館/編 2020年『沖縄の藍』 沖縄県立美術館・博物館
2020(令和 2)年に行われた沖縄県立博物館・美術館の企画展「沖縄の藍-自然と人が織りなす製藍の技」の図録。沖縄はもとより日本本土や世界も視野に入れ沖縄の藍を体系化している。

沖縄国際大学南島文化研究/編2003年『近世琉球の租税制度と人頭税』 沖縄国際大学南島文化研究所
八重山の染織文化にも大きな影響を与えた人頭税を、多方面から考察する一冊。第4章「人頭税に関わる伝承と歌謡」には、人頭税を実際に体験した女性たちの聞き書きがあり、当時の様子や、過酷さがダイレクトに伝わってくる。

沖縄大百科事典刊行事務局/編1983年『沖縄大百科事典』 沖縄タイムス社
沖縄についてのあらゆることが全四巻にわたり網羅された本。約 1 万 7 千項目を収録。

小橋川順一2004年 『沖縄島々の藍と染織』 染織と生活社
琉球藍だけではなく、先島諸島の「インド藍」や宮古島の「蓼藍」を体系化している。技術編では業界のトップリーダーたちの協力を得て「匠の技」の公開も行っている。沖縄の天然染料の復興を願う著者の気持ちが切に伝わってくる。

城一夫 2020 年 『時代別日本の配色事典』 パイインターナショナル
時代別に使われた色を分類することにより、その時代に何が流行し、どんな文化や思想、風俗に影響したのかを楽しく知ることができる。

竹内淳子 1991 年 『藍 風土が生んだ色』 法政大学出版局
北海道から沖縄まで、日本各地の藍を訪ね、栽培から染織・加工に至る人々の藍の記録を克明に記録した一冊。藍に対する深い好奇心にあふれた書。

竹内淳子 1999 年 『藍Ⅱ暮らしが育てた色』 法政大学出版局
1991年発行『藍』に続く第 2弾。小浜島を訪れ、幻のインド藍にたどりついた氏の「こんなに普通に作っているんだ」と拍子抜けする描写が面白い。小浜島の女性たちからの聞き取りをもとに、製造方法や工程などを細かく記録している。

竹富町史編集委員会/編 2011 年 『竹富町史 第二巻 竹富島』 竹富町
竹富町史編集委員会/編 2011 年 『竹富町史 第三巻 小浜島』 竹富町
竹富町史編集委員会/編 2018 年 『竹富町史 第七巻 波照間島』 竹富町

竹富町の7つの有人島各島にスポットをあて、その島の個性を浮き上がらせた約700頁の大著である。これまでに、竹富島、小浜島、新城島、鳩間島、波照間島の5冊が出版されている。竹富島や小浜島での染織の記録はほかの島に比べて多い。

外村吉之助 1969年 『民芸遍歴』 朝日新聞社
著者は竹富島の民芸復興に深く関わった滋賀県出身の民芸運動家。「民芸遍歴」とは「民芸の道に目ざめた者の告白」であると「あとがき」に記してある。氏は古き良き石垣島や竹富島を訪れているが、そのことを記したエッセイから、氏の織染文化に対する深い関心が伝わってくる。芹沢銈介が装丁を担当。

富山弘基・大野力 1971年『沖縄の伝統染織』 徳間書店
奄美群島から先島地域に至る琉球弧の各地の染織について、熱心なフィールドワークを通してまとめられた本。日本本土の染織文化と比べても特異な存在を放つ沖縄の染織文化の奥深さを知ることのできる一冊である。両氏の考える伝統染織の現状と展望からは、沖縄の伝統染織に対する深い思いが伝わる。

日本民藝協會/編 1939 年 『月刊 民藝』〈創刊號〉 日本民藝協會
日本民藝協會/編 1939 年 『月刊 民藝』〈七月號〉 日本民藝協會

『月刊民藝』は柳宗悦らにより、失われつつある日本の生活文化を追求した日本民藝協会の機関誌である。〈創刊号〉の巻頭は4ページにわたり柳宗悦が書いた「なぜ琉球に同人一同で出かけるのか」という力強い文章がある。〈7月号〉には、染色家の芹沢銈介と岡村吉右衛門が書いた「紅型」の記事、外村吉之助の「琉球の織物について」があり、沖縄の染織文化に対しての敬意や熱い思いがほとばしる。

外間守善・宮良安彦/編 1979 年 『南島歌謡大成 Ⅳ 八重山篇』 角川書店
『南島歌謡大成』全 5 巻は、奄美諸島から八重山諸島にいたる、南島におけるすべての歌謡を網羅し、ジャンル別に集大成している。これらは南島歌謡研究のための基礎的文献となり、本書はその「八重山篇」である。

外間守善・仲程昌徳・波照間永吉/共著 2020 年 『沖縄ことば咲い渡り』〈さくら〉ボーダーインク
1ページに南島歌謡や沖縄近代文学の詩からの一節を紹介し、簡潔であるが味わい深い解説が付され、良い鑑賞の手引きになっている。これらから沖縄の心を読みとることができる。〈さくら〉のほか、〈あお〉〈みどり〉で全3巻をなしている。

前新透/著、波照間永吉・高嶺方祐・入里照男/編著 2011 年 『竹富方言辞典』 南山舎
1924(大正 13)年生まれの著者が、生まれ島・竹富島の長老方を訪ね記録した、1562 頁におよぶ竹富方言の集成。

牧野清/著 『八重山のお嶽』1990年 あ~まん企画
牧野は八重山を代表する歴史・民俗研究科である。石垣市の公職を退いた後、精力的にフィールドワークを行い数々の名著を残している。『八重山のお嶽』は島々に点在する二三二もの御嶽の調査を個人の力で調べまとめたもので、680頁にも及ぶ。

宮城信勇 1977 年 『八重山ことわざ事典』 沖縄タイムス社
八重山に伝わることわざを、方言の五十音順に並べて解説する。「改訂増補版」(■年)の巻末には索引がついており、方言がわからない人でも、活用しやすい。

宮城信勇 2003 年 『石垣島方言辞典』 沖縄タイムス社
八重山には沖縄本島とは異なる言語体系がある。石垣島方言辞典は1万7600を超える石垣方言の集大成である。日本語からも方言をたどれる索引があり、ほとんどの言葉に例文が付いている。母の宮城フミと共に二代に渡る方言研究に努めた。

宮城フミ 1972 年 『八重山生活史』沖縄タイムス社
八重山の生活全般を、生活者である女性の立場で記した民俗誌。第二編「衣」に八重山の織物文化や、生活の場面が描写される。沖縄学の父といわれる伊波普猷にちなんだ、「第一回伊波普猷賞」を受けている。『石垣島方言辞典』をまとめた宮城信勇氏とは親子である。

森田孫榮 1999 年 『八重山芸能文化論』 森田孫榮先生論文集刊行事業委員会
八重山の芸能文化とその基盤となる暮らしの諸相を論じた書。八重山の美意識を、薄水色に染めた男性の正装「イルヌキン」(色の衣)に求めているのは興味深い。

安本千夏 2015 年 『島の手仕事』 南山舎
染織に携わる人々の語りから、八重山の風土と島の手仕事の尊さが伝わってくる。巻末の資料編には、八重山の染織の工程や道具、植物などが写真とともにわかりやすく紹介されている。第 14 回パピルス賞受賞。

山田雪/述、安渓貴子・安渓遊地/編 1992 年 『西表島に生きる―おばあちゃんの自然生活誌―』 ひるぎ社
西表島網取村出身の山田雪子さん(1907 年生れ)の語りを通じ、自然とともにあった島の暮らしが紹介されている。そのなかで藍染めの方法や藍の薬効もとりあげられている。

人頭税廃止百年記念事業期成会記念誌部会/編 2003 年『あさぱな』
八重山人頭税廃止百年記念事業期成会人頭税廃止 100年を記念して刊行された。有志による八重山毎日新聞や八重山日報への寄稿文を中心に、月刊やいまで特集された「目でみる人頭税」も収録している。わかりやすくまとめられた文章、写真、人頭税年表、『蔵元絵師画稿集』などビジュアル的に人頭税をとらえることができる。資料室では「あさぱな」と略記する。

与那国町教育委員会/編 1995年『与那国島の植物』 与那国町教育委員会
日本最西端・与那国島の植物図鑑。オールカラー。和名・学名・方言名のほか、植物が食用、薬用、建築用など暮らしのさまざまな場面に用いられていることが分かる。町木のクバ(ビロウ)は見開き2ページにわたって紹介されている。

與那嶺一子「織物史」(与那国町史編集委員会事務局/編 2013年『黒潮の衝撃波 西の国境どぅなんの足跡』与那国町役場
第三巻の與那嶺一子氏による「織物史」は与那国織の概要や民藝運動家の田中俊雄が調査した縞織物の名称と図柄も収録されている。
お知らせ

2021.9.15

九州の手しごと展出店 日時:9/15日(水)〜9/22日(水) 場所:あべのハルカス近鉄本店 ウイング館9階 ※最終日は15時まで